雨ハ止マズ

1. 雨に滲む輪郭

雨が降り続くと、世界は少しだけ輪郭を失う。

仕事帰りの亜麻奈(あまな)は、濡れたアスファルトを踏みしめながら、“自分自身の輪郭”までぼやけていくような感覚を抱えて歩いていた。

街灯の光は水滴に滲み、見慣れた道が別の場所に見える。

そのぼやけた景色に、亜麻奈はいつも過去の影を重ねてしまう。

恋人と別れて半年が経つ。

忘れたと思っていた痛みが、雨の日には突然膨らむ。

ため息を吐いて、雨に溶けていくのを見届けるように目を閉じたとき、ふと、近くの喫茶店「メルティ」の柔らかい明かりが視界に入った。

2. 時計を覗く紳士

雨宿りのつもりで扉を開けると、そこには妙に場違いな人物がいた。

タキシードにシルクハット。
眼鏡の奥の鋭い目つき。

そして、数分に一度、まるで心臓の鼓動でも測るかのように腕の高級時計を確認する癖。

「……なんだろう、この人」

喫茶店の客席にあるはずの“生活感”が、一切ない。

亜麻奈は気にしないようにしようと思ったが、不思議と視線が吸い寄せられてしまう。

ついには、コーヒーを一口飲んだ勢いで声をかけてしまった。

「あの……時計、気になりますか?」

男はゆっくりと亜麻奈の方を向き、少し面倒くさそうに、しかしどこか興味深げに眉を上げた。

「ええ。時間は常に気になるものですよ。
忘れたふりをしても、向こうが勝手に追いかけてきますからね」

妙に哲学的で、湿った夜の空気と相性のいい、そんな言い回しだった。

亜麻奈は、思わず口をついて出た。

「……雨の日って、なんか、忘れたいことを洗い流してくれるみたいで」

言った瞬間、その言葉が自分自身の胸に突き刺さる。

男は少し目を細め、時計をもう一度軽く見てから呟いた。

「ふむ……忘れたいこと、ですか。
雨は確かに、何かを溶かす性質があるようですね。
ただし、溶けて浮かび上がったものまでは消してくれませんが」

その言い方がまた、少し面倒くさくて、でもなぜか亜麻奈の胸に静かに届いた。

男はカップの縁を確かめるように指でなぞり、小さく息を吸った。
その仕草が妙に神経質で、でもどこか愛嬌があった。

「忘れたいこと、か……」

と男はゆっくり繰り返す。

「人はよくそう言いますがね、実のところ、忘れたい記憶というのは、たいてい忘れたくない記憶と対になって存在しているんですよ。
ちょうど表と裏のように」

「表と裏……ですか?」

「ええ。たとえば…」

男は時計を見た。
秒針がひとつ音もなく進む。

「雨が降ると憂鬱になる、と言うでしょう。
でも雨が降るからこそ、晴れる日の青さが際立つ。
同じように、忘れたいことがあるというのは、その裏に忘れたくないものがある証拠なんですよ」

“少し面倒な人だ、と亜麻奈は思った。けれど―”

亜麻奈は心の中でつぶやいた。

「でも、忘れたくないことなんて……」

口に出しかけて、言葉が喉につまる。

男は亜麻奈との距離を確かめるように、少し体を傾けた。

「さっきあなたが言ったでしょう。
雨は忘れたいことを洗い流してくれるみたいだと。
――なら、あなたはきっと何かを抱えている」

急に核心を突かれたようで、亜麻奈は思わず目をそらした。

「そんな……大げさですよ」

「大げさじゃありませんよ」

男は静かに笑った。
笑い方までどこか古風だ。

「雨の日にひとりで喫茶店に入る人はね、たいてい何かを抱えている。
私はそういう人を何年も見てきましたから」

「何年も?」

男はそれには答えず、代わりにカップを持ち上げた。

それは“話を逸らされた”というより、“語ることを避けられた”と亜麻奈は直感した。
その沈黙を埋めるように、外で雨がしとしとと音を立てる。

雨音が透明な布のように二人の間に落ちてきて、店内を一層静かにした。

亜麻奈は、胸の奥にある“言葉にならない湿気”がふと溢れそうになる。

だから、気づけばこう言っていた。

「……私、最近すごく空っぽなんです。
何もないのに苦しい、っていうか。
心に湿度があるというか……乾かないというか」

男は目を細めた。
まるでそこに映る雨粒のひとつひとつを観察するように。

「湿度は悪くありませんよ」

男は言った。

「湿度があるということは、まだ心が呼吸をしている証拠です。
完全に乾いてしまったら、もう何も感じなくなってしまう」

その言葉が胸に、静かに波紋のように広がった。

亜麻奈は、胸の奥に詰まっていたものが、少しだけふわりと軽くなるのを感じた。

男はまた時計を見た。
眉がほんの少し寄った。

「……どうしてそんなに時計を見るんですか?」

思い切って聞いてみると、男はカップを置く音ほどの静けさでつぶやいた。

「誰かを、待っているんですよ」

「誰か?」

「ええ。雨の中でしか会えない相手をね」

そこでまた時計をひと目。
男の目はとても遠くを見ていた。

亜麻奈は何も言えなかった。
ただその横顔を見つめていた。

男はゆっくり立ち上がった。
シルクハットの影が亜麻奈に落ちる。

「あなたもいつか会えますよ。
雨に洗われたあとで、本当に必要なものに。
そういうものです」

短く帽子を下げると、男は傘もささずに雨の中へ出ていった。

扉が閉まった瞬間、外の雨が少しだけやわらかく聞こえた。

亜麻奈は自分の胸に手を当てた。
胸の奥の湿った場所に、微かな温かさが戻っていた。

――雨は止まない。

でも、どこかで少し晴れ間が生まれているような気がした。

3. 心に落ちる雨

喫茶店を出て、亜麻奈はひとりで歩き出した。

気づけば、さっきより雨の粒が大きくなっている。
空気も冷えて、傘の内側に白い吐息がふわりと浮かんだ。

「あなたもいつか会えますよ。
雨に洗われたあとで、本当に必要なものに。
そういうものです」

その言葉だけが、雨の音に混じって頭の中に残り続けた。

胸の奥で、何かが微かに揺れた。

「本当に必要なもの」

――そんなもの、私は持っているのだろうか。

考えれば考えるほど、透明な穴のような空虚だけが広がっていく。

信号の前で足を止め、傘を握り直した。

そのまま、ゆっくり、意識的に、傘を閉じる。

バサっと乾いた音がして、すぐに冷たい雨粒が一斉に肩を叩いた。

「……さむっ」

思わず口に出た声さえ、雨に吸い込まれてしまう。

服は瞬く間に重くなり、髪は頬に貼りつき、首筋を伝う水が背中まで滑っていく。

不快だ。最悪。

だけど―

なぜだろう。
すこしだけ、すこしだけ、呼吸が楽になる。

理屈じゃない。

心の底に固まっていた感情が、雨粒と一緒にゆっくり溶けていくような気がした。

彼女は白く煙った空を見上げる。
雲はまだ分厚く、晴れる気配もない。

けれど、その向こうに―

ぼんやりと、色がにじむ。

ありもしない虹が、彼女の心の奥の湿った場所に、うすく、かすかに浮かび上がる。

現実の空には何ひとつかかっていない。

でも、「いつか必ず見える」という予感だけは、たしかに、そこにあった。

雨ハ止マズ

窓の向こうに 濡れた街灯
滲む光は 昨日の影を引きずって
手を伸ばしても 届かぬ声
風に消えていく 約束のように

足跡は 雨に流され
行き場をなくしても

マダ 雨ハ止マズ 心ハ遠ク
瞼ノ奥ニ 静カナ波紋
マダ 霧ハ晴レズ 心ハ脆ク
硝子細工ノヨウニ 崩レ去ッタ

濡れた空気は 頬に残して
まだ乾かぬ 言葉の湿度
時計の針は 淡々と進み
忘れられぬものを やさしく溶かす

指先でなぞる 昨日のかけら
まだ胸の奥 雨は響くが
流れてゆく 雲の隙間に
微かな光を探す

マダ 雨ハ止マズ 心ヲ揺ラス
言葉ニデキナイ 祈リヲ抱キ
マダ 雲ハ消エズ 心ヲ閉ザス
独リデコノママ 夢マデ泳ゴウ

頭の中を占めている
空虚は雨で満たされていく
傘を叩く音が耳を突き
私は今より孤独になった

雨ハ止マズ
ソレデモイツカ
空ニ虹ハカカルダロウ

マダ 雨ハ止マズ 心ヲ揺ラス
言葉ニデキナイ 祈リヲ投ゲテ
マダ 虹ハ見エズ 心ヲ照ラス
独リデモイイヨ 明日ハ晴レル

あとがき