夜、部屋の明かりを落としたまま、葵はスマートフォンを眺めていた。
ニュースアプリの動画が自動再生される。音は出していない。
画面の中では、ドレスやスーツに身を包んだ人々が、赤い絨毯の上をゆっくりと歩いていた。
フラッシュが瞬き、誰かが誰かに微笑みかける。
祝福されるために用意された空間。
葵はそれを、感情のない視線で見ていた。
画面を見続けているうちに、目の奥がじんと痛んだ。
フラッシュの白が、わずかに残像として残る。
葵は無意識に肩をすくめ、指で画面をスクロールした。
次のニュース、次の映像。
どれも自分の生活とは関係がないはずなのに、
なぜか、すぐに閉じることができなかった。
惹かれているわけではない。
憧れているとも言い切れない。
ただ、そこが自分とは違う世界だということだけは、はっきりとわかる。
葵には富もなければ、何かを一瞬で変えてしまうような才能もない。
今いるこの部屋、白い壁と最低限の家具。
ここが、今の自分にとっての現実だ。
それなりに名前の知れた大学を出て、
それなりに名前の知れた会社に勤めている。
営業成績は安定していて、社内で表彰されたこともある。
失敗の少ない人生だった。
優等生、と言われる側の人間だった。
それでも、いつも心のどこかが満たされない。
ぽっかりと空いた空洞のようなものが、自分の中にあることだけは、ずっと気づいていた。
それが何なのか、考えないようにしてきた。
考えたところで、答えは出ないと思っていたからだ。
スマートフォンを伏せ、目を閉じる。
眠りは、思ったより早く訪れた。
目を開けると、葵は夜の都会に立っていた。
ネオンは煌々と輝いているのに、街は異様なほど静かだった。
車の音も、人の声もない。
ただ、高く伸びるビルの影が、冷たい空気の中に沈んでいる。
──これは夢だ。
そう思いながら歩き出す。
けれど、街はとてつもなく広く、どこまでも続いていた。
自分の足音だけが、空洞のように響く。
そのとき、遠くで微かに青い光が揺れた。
近づくにつれ、それは一本の道のように見えてきた。
青く光る絨毯。
ブルー・カーペット。
それは地上から、空へ向かってまっすぐに伸びていた。
夜空が、葵を呼んでいるように見えた。
──こちらに来て。
葵は、恐る恐る足を乗せる。
思ったよりも、確かな感触があった。
沈まない。崩れない。
一歩、踏み出す。
次の瞬間、自然と走り出していた。
走るのは、想像以上に苦しかった。
夢のはずなのに、呼吸は乱れ、胸が焼けるように痛む。
それでも、足だけは前に出ることをやめなかった。
腕を振り、息を整えながら進む。
ゴールは見えない。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
カーペットを外れれば、空から街へ落ちてしまう。
ただまっすぐ、前だけを見て進むしかない。
ふと、足元の縁が視界に入る。
その向こうには、光に満ちた街が、はるか下に広がっていた。
落ちたらどうなるのか。
想像しようとした瞬間、身体が強張る。
葵は慌てて視線を前に戻し、
何も考えないように、呼吸だけに意識を向けた。
汗が頬を伝い、足が重くなっていく。
それでも、葵は走り続けた。
胸の痛みが、記憶を引きずり出す。
子どもの頃、葵には夢があった。
バレエをやっていた。
ある日、教室に外部講師として、世界で活躍する日本人バレリーナがやって来た。
その踊りは、これまで見てきたものとはまるで違っていた。
身体が、音楽と一体になっていた。
呼吸さえ、踊りの一部だった。
その日から、葵は夢中になった。
ビデオを買い、公演を観に行き、
「自分もああなりたい」と、疑いなく思っていた。
けれど、続けるほどに現実が見えてくる。
努力だけでは届かない場所がある。
環境、体格、持って生まれたもの。
真剣になればなるほど、埋められない差が浮き彫りになる。
いつしか、感情に蓋をした。
気づけば、走る息は荒く、リズムも崩れていた。
視界が霞み、足に力が入らない。
それでも、葵は立ち止まらなかった。
「負けたくない」
声にならない声が、胸の奥から湧き上がる。
大声をあげ、目を見開く。
ここで諦めたら、
一生、この先には辿り着けない。
自分の呼吸を聞きながら、
自分と向き合い、
自分と戦う。
二度と、大切なものを失わないように。
青い絨毯は、夜を包み、夢を隠し、
それでもなお、葵を空へ導いていた。
幻想が、世界を染める。
私を染める。
心を、青く。
目を開けると、天井があった。
見慣れた白い天井。
カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。
どこにもネオンはなく、空へ伸びる絨毯もない。
夢だった。
そう思おうとして、胸に残る息の苦しさに気づく。
呼吸が、まだ整っていない。
喉の奥が乾いていて、心臓の音がやけに大きい。
葵はゆっくりと上半身を起こした。
手のひらを見る。
何かを強く握っていたような感覚だけが、残っている。
──走っていた。
理由も、行き先もわからないまま。
それでも、確かに「行かなければならない場所」があった。
カーテンを開ける。
朝焼けが、街を淡く染めていた。
夜とは違う色。
けれど、どこか青に近い。
スマートフォンが震える。
通知。
今日の予定。
会議、訪問、数字。
いつもの一日が、何事もなかったように待っている。
それでも、何かが違っていた。
呼吸を、意識してしまう。
歩くとき、足の裏の感覚を確かめてしまう。
身体が、まだ夢の続きにいるようだった。
洗面台の鏡に映る自分を見る。
変わったところは、何もない。
それでも、目だけが、少し違う気がした。
歯を磨きながら、ふと頭をよぎる。
子どもの頃、音楽に合わせて身体を動かしていた感覚。
上手いとか下手とか、関係なく、
ただ、呼吸と動きがつながっていた時間。
忘れたと思っていた。
忘れたふりをしていた。
出勤の準備を終え、玄関で靴を履く。
ドアノブに手をかけたまま、少しだけ立ち止まる。
世界は、何も変わっていない。
レッドカーペットは、今日もニュースの中にあるだろう。
自分は、そこを歩く人間ではない。
それでも。
──一歩、踏み出すことはできる。
空へ続く道じゃなくてもいい。
拍手も、フラッシュもなくていい。
ただ、自分の呼吸を失わないように。
ドアを開けると、朝の空気が流れ込んできた。
街はもう、動き始めている。
駅へ向かう道で、同じ方向に歩く人たちの流れに身を任せる。
けれど、その歩調が、わずかに速すぎる気がした。
葵は一度だけ、意識して息を吸い、吐く。
胸の奥で、何かが整うのを待つように。
その間だけ、世界の音が少し遠ざかった。
青い絨毯は、どこにも見えない。
けれど、胸の奥に、かすかな色だけが残っていた。
それは、まだ名前のついていない感情だった。