会社を休むことになってから、時間は奇妙な形をするようになった。
朝と昼の境目が曖昧で、曜日はすぐに意味を失う。
蘭は目覚ましをかけないまま目を覚まし、カーテン越しの光が強いか弱いかで、今日が晴れなのかを判断した。
コーヒーを淹れる。
マグカップに注いで、ソファに座る。
気づいたときには、もう冷めている。
「……別に、いいか」
以前なら考えられなかった言葉だった。
温度も、味も、効率も、いつも“ちょうどよく”あるべきだった。
それができない自分は、どこか欠けている気がしていた。
ニュースは音だけ流して、画面は見ない。
経済、事故、炎上。
自分がいなくても、世界は問題なく進んでいる。
その事実が、胸に小さな穴を開けた。
休職に入った初日は、罪悪感でいっぱいだった。
本当は今日も、誰かが残業している。
自分が投げた仕事を、誰かが拾っている。
ベッドに横になりながら、蘭は天井を見つめた。
何もしていないのに、疲れている。
何もしていないから、余計に苦しい。
——何をして過ごせばいいんだろう。
答えは、どこにもなかった。
少し前の記憶が、不意に浮かぶ。
深夜のオフィス。
光るモニター。
「助かるよ、蘭さんなら大丈夫だよ」という、無責任な期待。
眠れなくなって、夜にビールを飲むようになった。
そのまま意識を落とすように眠る。
朝は、頭が重い。
そして、あの日。
ひとつのミス。
ひとつのクレーム。
謝罪の電話口で、何かが音を立てて折れた。
昼過ぎ、散歩に出た。
理由はない。ただ、部屋の空気が重くなった気がしたから。
夏の空を見上げると、雲が不自然な形をしていた。
まるで、何かに喰われたあとみたいだ、と思った。
「空想と創造……」
なぜそんな言葉が出てきたのか、自分でもわからない。
でも、今の自分には、それで十分だった。
公園のベンチに座り、風に吹かれる。
この時間は、どこにも属していない。
仕事でも、休みでもない。
——日常の、すきま。
その言葉が、すっと胸に収まった。
休み始めて一週間が過ぎたころ、蘭は曜日を間違えるようになった。
ゴミ出しの日を逃して、少しだけ落ち込む。
けれど以前のように、自分を責め続けることはなかった。
——まあ、いいか。
その言葉は、逃げでも開き直りでもなく、単なる事実の確認に近かった。
午前中に眠くなり、午後に少し目が冴える。
散歩の距離が、日ごとに伸びていく。
特別なことは何も起きない。
それが、少しずつ心地よくなっていた。
病院の帰り、エレベーターに乗った。
閉まる直前、誰かが駆け込んでくる。
若い男性だった。
スーツに少しだけ疲れがにじんでいる。
「……すみません」
彼はそう言って、軽く頭を下げた。
蘭は反射的に首を振る。
ほんの一瞬、視線が合った。
その目には、かつての自分と同じ色があった。
扉が閉まり、数字が減っていく。
それ以上、何も起きなかった。
それでも、その出来事は一日中、心のどこかに残った。
家に戻り、ソファに倒れ込む。
天井を見つめながら、ふと思う。
——あの人も、ちゃんと休めているだろうか。
以前なら、そんなことを考える余裕はなかった。
他人のことを思う前に、自分が潰れていた。
回想は、だんだん短くなっていた。
残業続きの夜。
誰もいないフロア。
キーボードの音だけが、妙にリズムを刻んでいた。
目標管理シート。
達成率。
期待値。
それらは、すべて正しかった。
正しすぎて、息ができなかった。
午後、窓を開けると、風が入ってきた。
洗濯物が、ゆっくり揺れる。
頭の中で、名前のないメロディが、ほどけるように流れた。
「……意味、ないよね」
そう呟いてから、少し考える。
意味がないことは、本当に悪いことだろうか。
役に立たない時間。
成果に繋がらない思考。
何者にもならない午後。
それらがあるから、人は壊れずに済むのかもしれない。
ある日、平日の昼間にしか開いていない喫茶店に入った。
客は、年配の女性が一人だけ。
「お仕事、お休み?」
カウンター越しに聞かれて、一瞬言葉に詰まる。
それから、正直に答えた。
「……はい。ちょっと、調子崩して」
女性はそれ以上、踏み込まなかった。
ただ、コーヒーを置いて、こう言った。
「そういう時間も、人生には必要よ」
それは、あまりにもありふれた言葉だった。
でも、胸の奥で何かがほどけた。
帰り道、蘭は空を見上げた。
季節は、少しずつ夏から秋へ向かっている。
雲は、もう喰われていなかった。
ただ、形を変えながら流れていくだけだった。
——うまくいかなくても、いい。
そう思えたのは、初めてだった。
秋が来るのは、思っていたよりも早かった。
朝の空気が少し冷たくなり、散歩の途中で羽織りものが欲しくなる。
季節が変わることに、理由はない。
頑張ったからでも、耐えたからでもない。
ただ、そういうふうにできている。
それが、少し羨ましかった。
休職して三か月目。
診察室で、医師は淡々とカルテを見ながら言った。
「眠れるようには、なってきましたね」
「はい。……前よりは」
「それなら、十分ですよ」
“十分”という言葉に、蘭は少し驚いた。
もっと何かができていないと、前に進めないと思っていたから。
回復には、段階も、点数もない。
その事実が、ゆっくりと胸に染みていく。
帰り道、満員ではない電車に乗った。
座席に空きがあり、迷わず座る。
以前の自分なら、立っていただろう。
座ることに、どこか後ろめたさを感じていた。
今は、足を揃えて、静かに揺られている。
窓に映る自分の顔は、少しだけ柔らかかった。
過去の記憶が、また浮かぶ。
期待されることが、誇らしかった。
頼られることが、自分の価値だと思っていた。
でもそれは、糸を握りしめて凧を飛ばすようなものだった。
風が強くなればなるほど、手は痛くなる。
いつか、切れる。
切れたのは、糸ではなく、自分だった。
五か月目の終わり、蘭は一つだけ決めたことがあった。
——無理をしている自分に、気づくこと。
それは、簡単なようで難しい。
今までずっと、無理の上に立って生きてきたから。
疲れているなら、休んでいい。
元気になったら、また歩けばいい。
誰かに言われた言葉ではない。
自分の中から、初めて出てきた言葉だった。
冬の日。
風は冷たく、街は少しだけ無表情になる。
公園の片隅で、溶けかけの雪だるまを見つけた。
目も、鼻も、もう形を失っている。
それでも、なぜか嫌な気はしなかった。
溶けるのは、失敗ではない。
役目を終えただけだ。
復職の話が出たのは、その少しあとだった。
条件付きで、時間を短くして。
できないことは、できないと言っていい。
不安は、もちろんある。
でも以前のような、息が詰まる感じはなかった。
満員電車。
オフィスに並ぶ目標の羅列。
雑踏と喧騒。
それらは、相変わらずそこにある。
オフィスには、相変わらずキーボードの音があった。
——なんとか、やれるさ。
出勤初日の朝、エレベーターに乗る。
閉まる直前、誰かと目が合う。
知らない顔。
でも、もう怖くはない。
扉が閉まる。
数字が、ひとつずつ増えていく。
蘭は、深く息を吸った。
日常は、また始まる。
でもその間に、確かに——すきまがある。
それを知っているだけで、世界は少し優しかった。