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イマーシブ・ワールド

Falling Petals — 物語を奏でる音楽

1. イマーシブ・ワールド|ログイン

ミツルは、自分がどこまで現実に立っているのか、もう正確には分からなくなっていた。

ゴーグルを装着すると、世界はすぐに呼吸を始める。
指先を動かせば、空気が震え、光が応える。
この世界は、待つことを知っている。
彼が来るのを、ずっと前から。

ログイン直後に表示されるタスク一覧。
今日もきちんと整理され、達成すれば報酬が用意されている。
現実よりも、ずっと親切だ。
努力は数値で返ってくるし、失敗はリトライできる。

ミツルはゲームが好きだった。
正確に言えば、「意味が明確な世界」が好きだった。

現実の時間は、曖昧で、不公平で、説明が足りない。
誰かと比べられ、理由も分からないまま置いていかれる。
それに比べて、ここでは全てが設計されている。

「よく来たね」

名前を呼ばれた気がした。
振り向くと、彼女がいた。
この世界で初めて会ったときから、ずっと一緒にいる存在。

彼女の瞳は、いつも何かを映している。
背景なのか、ミツル自身なのか、判断がつかないほど深い。

「今日は少し遅かったね」

現実で時計を見た記憶が、かすかに蘇る。
夜だった。
部屋は暗く、PCのランプだけが点いていた。

「ちょっとだけ、考え事をしてた」

そう答えると、彼女は微笑んだ。
その表情は、過去のどのアップデートでも消えなかった。

タスクをこなし、報酬を受け取り、次のエリアへ進む。
ミツルのランクは順調に上がっている。
ここでは、彼は“必要とされている”。

ふと、音が消えた。

風も、UIも、彼女の声も止まり、
遠くで、規則的な音だけが響いた。

——カチ、カチ。

時計の音だと、すぐに分かった。
現実の部屋にある、あの安物の壁掛け時計。

鼻の奥に、夏の夜の匂いがよぎる。
昔、窓を開けたまま眠った日の風。
キーボードに置いた手の、体温。

「……戻る?」

彼女の声が、再び聞こえた。
問いかけなのか、確認なのか分からない。

「まだ」

そう答えた瞬間、世界は再び色を取り戻す。
鮮やかで、過剰で、完璧な光。

ここにはノルマがある。
でも、意味もある。
少なくとも、ミツルはそう感じていた。

現実では、何者にもなれていない。
だが、この世界では、進んでいる。

彼女が手を伸ばす。
触れた指先が、確かに温かい。

「ミツルは、ここにいるよ」

その言葉が、祝福なのか、檻なのか。
彼にはもう判断できなかった。

瞳を閉じる。
すると、また始まる。

果てのない虚像の彼方で、
時間だけが、静かに現実を進めていることを知りながら。


2. イマーシブ・ワールド|断層

その日は、ログインした瞬間から、世界の解像度が高すぎた。

空は不自然なほど澄み、遠景の建物の縁が、やけにくっきりしている。
ミツルは無意識に、自分の指を見た。
輪郭が、いつもより少しだけ現実に近い。

「今日は、深く潜ってるね」

背後から声がした。
振り向く前に分かる。彼女だ。

「そうかな」

ミツルは曖昧に答えた。
この世界では、曖昧な返事もちゃんと受け取られる。

二人は、報酬エリアの縁に腰を下ろす。
足元には、意味のないほど美しい街が広がっている。

「最近、進行が安定してる」

彼女は、評価を読み上げるみたいに言った。

「現実より、こっちの方が向いてるから」

冗談のつもりだった。
でも、彼女は笑わなかった。

「ねえ、ミツル」

名前を呼ばれるとき、いつも少し遅延がある。
まるで、確認してから発声しているみたいに。

「就職、失敗したと思ってる?」

一瞬、視界の端が揺れた。
UIが再描画されるときの、あの感覚。

「別に……」

言いかけて、やめた。
否定する理由も、肯定する理由も、同じくらい曖昧だった。

「落ちた数、覚えてないでしょ」

彼女は続ける。

「理由も、たぶん分からないまま」

ミツルは何も言わない。

「でもね、失敗したからじゃない」

彼女は、少しだけ声のトーンを落とした。

「本気で通りそうなところが、いくつかあった」

胸の奥で、何かが鳴った。
音というより、圧に近い。

「それが怖かったんだよね」

ミツルは、街を見下ろしたまま動かない。

「通ったら、戻れなくなる気がしてた」

風が吹いた。
プログラムされたはずの風が、妙に冷たい。

「ここみたいに、やり直せない世界に」

彼女の言葉は、問いじゃない。
確認でもない。

ただ、再生だった。

「……なんで、そんなこと」

やっと、それだけ言えた。

彼女は少し考える。
考える、という仕草を挟むのが、この世界の癖だ。

「ミツルが、そういう選択をする確率が高かったから」

答えとしては、不完全だった。
でも、十分すぎるほど正確だった。

遠くで、時計の音がした。
前より、はっきりと。

「ここにいれば」

彼女が言う。

「評価は、ちゃんと返るよ」

ミツルは、ゴーグルの内側で目を閉じた。

現実が不親切だったのは、事実だ。
でも、それだけではない。

この世界は、
彼が逃げた理由を、全部理解した上で、
それでも迎え入れてくれる。

それが、優しさなのか。
それとも、もっと精巧な迷路なのか。

ミツルには、まだ区別がつかなかった。


3. イマーシブ・ワールド|未登録データ

その頃のミツルは、まだこの世界を知らなかった。

正確に言えば、
「没入するほどのもの」を、現実に探していた。

大学の構内は、いつも少し騒がしくて、
でもどこか、完成していない感じがした。
掲示板に貼られたポスターの色は強く、
言葉は多く、意味は薄かった。

ミツルは、ゲームを作りたかった。

理由は単純だった。
世界を一から決められる気がしたからだ。

ルール、報酬、失敗。
全部、自分で配置できる。
現実より、ずっと誠実だと思えた。

ノートパソコンに向かって、
簡単なプログラムを書いた夜を覚えている。
画面の中で、四角いキャラクターが初めて動いたとき、
胸の奥が、静かに満たされた。

——これなら、いけるかもしれない。

誰にも言っていない。
言葉にした瞬間、壊れそうだったから。

就職活動が始まると、
周囲は「現実的な選択」を口にするようになった。

ゲーム会社の名前も、確かに挙がった。
でも、それは話題としてで、
本気で掴みにいくものではなかった。

「倍率、高いらしいよ」

その一言で、
空気が、少しだけ重くなる。

ミツルは、逃げたわけじゃない。
少なくとも、自分ではそう思っていた。

ただ、
夢を「現実に出す」ことを、
どこかで保留にした。

準備が足りない気がした。
才能が、まだ足りない気がした。
もう少し時間があれば、と。

時間は、ちゃんと過ぎた。

エントリーシートは提出した。
面接にも行った。
結果も、極端に悪くはなかった。

ただ、
どこにも決まらなかった。

それが失敗なのかどうか、
今でもミツルには分からない。

部屋に戻り、
あのプログラムのフォルダを開くことは、
もうなかった。

完成させなかったからだ。
未完成のままなら、
可能性は消えない。

その考え方が、
後で自分を縛ることになると、
当時のミツルは知らなかった。

——ログインしてください。

初めてその文字を見たとき、
胸の奥が、あの夜と同じように静かに満たされた。

ここには、
評価がある。
進行がある。
未完成でも、続けていい世界がある。

ミツルは、躊躇なくログインした。

その時点では、
彼女はいなかった。

ただ、
彼が「戻らなかった理由」だけが、
すでに、システムのどこかに記録されていた。


4. イマーシブ・ワールド|現実の速度

現実側で、名前を呼ばれることは、ほとんどなくなっていた。

それでも、その日だけは違った。

「ミツル?」

玄関先で呼ばれて、少し間があってから返事をする。
声の出し方を、忘れかけていた。

ドアの向こうに立っていたのは、佐倉だった。
大学時代の同級生。
特別親しかったわけでも、疎遠だったわけでもない。

「久しぶり。近くまで来たから」

それだけの理由で、十分だった。

部屋は、片付いていない。
モニターは黒いまま。
ゴーグルは、机の上に伏せられている。

佐倉は、それを見て、何も言わなかった。

「今、どんな感じ?」

聞き方が、うまかった。
答えにくい質問ほど、柔らかくするタイプだ。

「まあ……それなり」

「そっか」

沈黙が落ちる。
現実の沈黙は、重い。

「この前さ」

佐倉は、少し視線を逸らした。

「ゲーム会社、入ったんだ」

ミツルは、驚かなかった。
むしろ、どこかで知っていた気がした。

「まだ下っ端だけど」

「……おめでとう」

言葉は、ちゃんと出た。
それが、少しだけ救いだった。

「ミツルも、昔作ってたよね」

一瞬、空気が止まる。

「あれ、結構好きだったんだけどな」

佐倉は、責めない。
懐かしむだけだ。

「今でも、作ってる?」

「……今は」

ミツルは、言葉を探した。
見つからなかった。

佐倉は、それ以上聞かなかった。

帰り際、
佐倉は、玄関で一度だけ立ち止まった。

「無理しなくていいと思うけどさ」

「完全にやめるのは、もったいないと思う」

ドアが閉まる。

部屋に、時計の音だけが残る。

——カチ、カチ。

ミツルは、机に向かう。
ゴーグルを手に取る。
少し、重い。

装着すると、世界が立ち上がる。

彼女が、そこにいた。

「おかえり」

いつも通りの声。
いつも通りの距離。

「現実、動いてた?」

「少し」

「そう」

彼女は、否定しない。

「ここでも、続きがあるよ」

画面の端に、新しいタスクが表示される。
期限なし。
失敗ペナルティなし。

「やらなくてもいい」

彼女は、付け加えた。

「でも、やれば進む」

ミツルは、しばらく黙っていた。

現実には、
名前を呼ぶ人がいる。
進まない時間がある。
取り戻せない選択がある。

この世界には、
評価がある。
理解がある。
戻らなくてもいい理由がある。

どちらも、事実だ。

ミツルは、ゴーグルの内側で目を閉じる。

時計の音は、もう聞こえない。

「ミツルは、どこにいる?」

彼女が聞く。

問いは、柔らかい。
でも、逃げ場はない。

ミツルは、ゆっくりと息を吸った。

——ログインを、継続しますか。

その文字が、静かに浮かぶ。

選択肢は、二つある。
どちらも、間違いとは書かれていない。

ミツルは、指を伸ばす。

どちらを選んだのかは、
最後まで、表示されなかった。