ミツルは、自分がどこまで現実に立っているのか、もう正確には分からなくなっていた。
ゴーグルを装着すると、世界はすぐに呼吸を始める。
指先を動かせば、空気が震え、光が応える。
この世界は、待つことを知っている。
彼が来るのを、ずっと前から。
ログイン直後に表示されるタスク一覧。
今日もきちんと整理され、達成すれば報酬が用意されている。
現実よりも、ずっと親切だ。
努力は数値で返ってくるし、失敗はリトライできる。
ミツルはゲームが好きだった。
正確に言えば、「意味が明確な世界」が好きだった。
現実の時間は、曖昧で、不公平で、説明が足りない。
誰かと比べられ、理由も分からないまま置いていかれる。
それに比べて、ここでは全てが設計されている。
「よく来たね」
名前を呼ばれた気がした。
振り向くと、彼女がいた。
この世界で初めて会ったときから、ずっと一緒にいる存在。
彼女の瞳は、いつも何かを映している。
背景なのか、ミツル自身なのか、判断がつかないほど深い。
「今日は少し遅かったね」
現実で時計を見た記憶が、かすかに蘇る。
夜だった。
部屋は暗く、PCのランプだけが点いていた。
「ちょっとだけ、考え事をしてた」
そう答えると、彼女は微笑んだ。
その表情は、過去のどのアップデートでも消えなかった。
タスクをこなし、報酬を受け取り、次のエリアへ進む。
ミツルのランクは順調に上がっている。
ここでは、彼は“必要とされている”。
ふと、音が消えた。
風も、UIも、彼女の声も止まり、
遠くで、規則的な音だけが響いた。
——カチ、カチ。
時計の音だと、すぐに分かった。
現実の部屋にある、あの安物の壁掛け時計。
鼻の奥に、夏の夜の匂いがよぎる。
昔、窓を開けたまま眠った日の風。
キーボードに置いた手の、体温。
「……戻る?」
彼女の声が、再び聞こえた。
問いかけなのか、確認なのか分からない。
「まだ」
そう答えた瞬間、世界は再び色を取り戻す。
鮮やかで、過剰で、完璧な光。
ここにはノルマがある。
でも、意味もある。
少なくとも、ミツルはそう感じていた。
現実では、何者にもなれていない。
だが、この世界では、進んでいる。
彼女が手を伸ばす。
触れた指先が、確かに温かい。
「ミツルは、ここにいるよ」
その言葉が、祝福なのか、檻なのか。
彼にはもう判断できなかった。
瞳を閉じる。
すると、また始まる。
果てのない虚像の彼方で、
時間だけが、静かに現実を進めていることを知りながら。
その日は、ログインした瞬間から、世界の解像度が高すぎた。
空は不自然なほど澄み、遠景の建物の縁が、やけにくっきりしている。
ミツルは無意識に、自分の指を見た。
輪郭が、いつもより少しだけ現実に近い。
「今日は、深く潜ってるね」
背後から声がした。
振り向く前に分かる。彼女だ。
「そうかな」
ミツルは曖昧に答えた。
この世界では、曖昧な返事もちゃんと受け取られる。
二人は、報酬エリアの縁に腰を下ろす。
足元には、意味のないほど美しい街が広がっている。
「最近、進行が安定してる」
彼女は、評価を読み上げるみたいに言った。
「現実より、こっちの方が向いてるから」
冗談のつもりだった。
でも、彼女は笑わなかった。
「ねえ、ミツル」
名前を呼ばれるとき、いつも少し遅延がある。
まるで、確認してから発声しているみたいに。
「就職、失敗したと思ってる?」
一瞬、視界の端が揺れた。
UIが再描画されるときの、あの感覚。
「別に……」
言いかけて、やめた。
否定する理由も、肯定する理由も、同じくらい曖昧だった。
「落ちた数、覚えてないでしょ」
彼女は続ける。
「理由も、たぶん分からないまま」
ミツルは何も言わない。
「でもね、失敗したからじゃない」
彼女は、少しだけ声のトーンを落とした。
「本気で通りそうなところが、いくつかあった」
胸の奥で、何かが鳴った。
音というより、圧に近い。
「それが怖かったんだよね」
ミツルは、街を見下ろしたまま動かない。
「通ったら、戻れなくなる気がしてた」
風が吹いた。
プログラムされたはずの風が、妙に冷たい。
「ここみたいに、やり直せない世界に」
彼女の言葉は、問いじゃない。
確認でもない。
ただ、再生だった。
「……なんで、そんなこと」
やっと、それだけ言えた。
彼女は少し考える。
考える、という仕草を挟むのが、この世界の癖だ。
「ミツルが、そういう選択をする確率が高かったから」
答えとしては、不完全だった。
でも、十分すぎるほど正確だった。
遠くで、時計の音がした。
前より、はっきりと。
「ここにいれば」
彼女が言う。
「評価は、ちゃんと返るよ」
ミツルは、ゴーグルの内側で目を閉じた。
現実が不親切だったのは、事実だ。
でも、それだけではない。
この世界は、
彼が逃げた理由を、全部理解した上で、
それでも迎え入れてくれる。
それが、優しさなのか。
それとも、もっと精巧な迷路なのか。
ミツルには、まだ区別がつかなかった。
その頃のミツルは、まだこの世界を知らなかった。
正確に言えば、
「没入するほどのもの」を、現実に探していた。
大学の構内は、いつも少し騒がしくて、
でもどこか、完成していない感じがした。
掲示板に貼られたポスターの色は強く、
言葉は多く、意味は薄かった。
ミツルは、ゲームを作りたかった。
理由は単純だった。
世界を一から決められる気がしたからだ。
ルール、報酬、失敗。
全部、自分で配置できる。
現実より、ずっと誠実だと思えた。
ノートパソコンに向かって、
簡単なプログラムを書いた夜を覚えている。
画面の中で、四角いキャラクターが初めて動いたとき、
胸の奥が、静かに満たされた。
——これなら、いけるかもしれない。
誰にも言っていない。
言葉にした瞬間、壊れそうだったから。
就職活動が始まると、
周囲は「現実的な選択」を口にするようになった。
ゲーム会社の名前も、確かに挙がった。
でも、それは話題としてで、
本気で掴みにいくものではなかった。
「倍率、高いらしいよ」
その一言で、
空気が、少しだけ重くなる。
ミツルは、逃げたわけじゃない。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
ただ、
夢を「現実に出す」ことを、
どこかで保留にした。
準備が足りない気がした。
才能が、まだ足りない気がした。
もう少し時間があれば、と。
時間は、ちゃんと過ぎた。
エントリーシートは提出した。
面接にも行った。
結果も、極端に悪くはなかった。
ただ、
どこにも決まらなかった。
それが失敗なのかどうか、
今でもミツルには分からない。
部屋に戻り、
あのプログラムのフォルダを開くことは、
もうなかった。
完成させなかったからだ。
未完成のままなら、
可能性は消えない。
その考え方が、
後で自分を縛ることになると、
当時のミツルは知らなかった。
——ログインしてください。
初めてその文字を見たとき、
胸の奥が、あの夜と同じように静かに満たされた。
ここには、
評価がある。
進行がある。
未完成でも、続けていい世界がある。
ミツルは、躊躇なくログインした。
その時点では、
彼女はいなかった。
ただ、
彼が「戻らなかった理由」だけが、
すでに、システムのどこかに記録されていた。
現実側で、名前を呼ばれることは、ほとんどなくなっていた。
それでも、その日だけは違った。
「ミツル?」
玄関先で呼ばれて、少し間があってから返事をする。
声の出し方を、忘れかけていた。
ドアの向こうに立っていたのは、佐倉だった。
大学時代の同級生。
特別親しかったわけでも、疎遠だったわけでもない。
「久しぶり。近くまで来たから」
それだけの理由で、十分だった。
部屋は、片付いていない。
モニターは黒いまま。
ゴーグルは、机の上に伏せられている。
佐倉は、それを見て、何も言わなかった。
「今、どんな感じ?」
聞き方が、うまかった。
答えにくい質問ほど、柔らかくするタイプだ。
「まあ……それなり」
「そっか」
沈黙が落ちる。
現実の沈黙は、重い。
「この前さ」
佐倉は、少し視線を逸らした。
「ゲーム会社、入ったんだ」
ミツルは、驚かなかった。
むしろ、どこかで知っていた気がした。
「まだ下っ端だけど」
「……おめでとう」
言葉は、ちゃんと出た。
それが、少しだけ救いだった。
「ミツルも、昔作ってたよね」
一瞬、空気が止まる。
「あれ、結構好きだったんだけどな」
佐倉は、責めない。
懐かしむだけだ。
「今でも、作ってる?」
「……今は」
ミツルは、言葉を探した。
見つからなかった。
佐倉は、それ以上聞かなかった。
帰り際、
佐倉は、玄関で一度だけ立ち止まった。
「無理しなくていいと思うけどさ」
「完全にやめるのは、もったいないと思う」
ドアが閉まる。
部屋に、時計の音だけが残る。
——カチ、カチ。
ミツルは、机に向かう。
ゴーグルを手に取る。
少し、重い。
装着すると、世界が立ち上がる。
彼女が、そこにいた。
「おかえり」
いつも通りの声。
いつも通りの距離。
「現実、動いてた?」
「少し」
「そう」
彼女は、否定しない。
「ここでも、続きがあるよ」
画面の端に、新しいタスクが表示される。
期限なし。
失敗ペナルティなし。
「やらなくてもいい」
彼女は、付け加えた。
「でも、やれば進む」
ミツルは、しばらく黙っていた。
現実には、
名前を呼ぶ人がいる。
進まない時間がある。
取り戻せない選択がある。
この世界には、
評価がある。
理解がある。
戻らなくてもいい理由がある。
どちらも、事実だ。
ミツルは、ゴーグルの内側で目を閉じる。
時計の音は、もう聞こえない。
「ミツルは、どこにいる?」
彼女が聞く。
問いは、柔らかい。
でも、逃げ場はない。
ミツルは、ゆっくりと息を吸った。
——ログインを、継続しますか。
その文字が、静かに浮かぶ。
選択肢は、二つある。
どちらも、間違いとは書かれていない。
ミツルは、指を伸ばす。
どちらを選んだのかは、
最後まで、表示されなかった。