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スターダスト

Falling Petals — 物語を奏でる音楽

1. 温度差

部室の窓は、いつも半分だけ曇っていた。

中学二年の冬。
ストーブは壊れていて、息は白く、アンプのランプだけがやけに赤かった。

俺たちにとってバンドは、放課後の延長だった。
文化祭で目立てればいい。
好きな曲をコピーして、少し女子に騒がれれば、それで十分。

将来なんて言葉は、まだ現実味がなかった。

けれど、穂花だけは違った。

「今の、もう一回」

歌い終わるとすぐにそう言う。
誰も何も言っていないのに、自分で首を振る。

録音した音源をスマホで流して、目を閉じて聴く。
その顔は、楽しんでいるというより、何かを測っているみたいだった。

俺はギターを抱えながら、彼女を見ていた。

穂花は昔から、目がまっすぐだった。
話している相手ではなく、その向こうを見る目。

体育館の窓の外、夕焼けのさらに先。
俺たちには見えない何かを、確かに見ているような目。

「リョウ、サビ前さ、もっと空けられない?」

言われるままにコードを変える。
音を抜き、隙間を作る。
彼女の声がそこに落ちる。

その瞬間だけ、少しだけ、何かが揃う気がした。

胸の奥が熱くなる。
でもそれは、俺にとっては“良い放課後”の延長だった。

家に帰れば数学の問題集がある。
模試の結果が悪ければ、母親の顔色が変わる。

俺は、ちゃんと現実の中にいた。

穂花には、そういう境目がなかった。

練習後、一人で残って発声しているのを何度も見た。
誰もいない部室で、同じフレーズを何十回も繰り返す。

声がかすれても、水を飲んでまた歌う。
壁に貼った小さなメモには、目標の数字やライブ映像のリンクが書かれていた。

あれは遊びじゃなかった。

俺は途中でギターを置いた日がある。
指が痛いとか、宿題があるとか、理由はいくらでもあった。

穂花は置かなかった。

受験の話が現実味を帯び始めたころ、メンバーは自然に減っていった。
塾の時間が伸び、部活が忙しくなり、誰も口にしないまま、練習日は消えた。

最後に部室へ行った日、穂花は一人で立っていた。

アンプも繋いでいないのに、マイクを握っている。

俺が入ると、少しだけ驚いた顔をした。

「来たんだ」

その言い方が、なぜか胸に刺さった。
来ない可能性を、もう考えていたみたいだったから。

その日、俺たちは一曲だけ合わせた。
もう誰も覚えていないような、未完成のオリジナル曲。

歌い終わったあと、沈黙が落ちた。

「ねえ」

穂花が言った。

「私、もっと上に行くから」

宣言というより、確認に近かった。

俺は笑って、「知ってる」と言った。
本当は、どこまでを“上”と言っているのか、わかっていなかった。

部室を出るとき、振り返った彼女の横顔は、もう同じ場所にいなかった。

俺たちはまだ中学生だった。
けれどあの瞬間、進む方向が少しだけずれた。

小さな角度だったはずなのに。

その差が、どこまで広がるのか、
あのときの俺は想像していなかった。


2. すれ違いの夕暮れ

高校に入ってしばらくして、穂花はスカウトされた。

最初は、よくある噂だと思っていた。
駅前で声をかけられただの、写真を撮られただの。
そういう話は、たまに聞く。

けれど、コンビニで立ち読みした雑誌の端に、小さく彼女の名前を見つけたとき、妙に現実味があった。

写真の中の穂花は、笑っていた。
制服ではなく、知らない衣装で。
けれど目だけは、中学の頃と同じだった。

あの、どこか遠くを見ている目。

動画も上がり始めた。
短いパフォーマンス映像。
インタビューの切り抜き。

画面越しに見る彼女は、少しずつ整えられていった。
立ち方、角度、言葉の選び方。

けれど、その奥にあるものは、昔から変わっていない気がした。

俺は何度も再生した。
理由はよくわからない。
応援なのか、確認なのか。

たぶん、置いていかれていないかを確かめたかったのだと思う。

久しぶりに会ったのは、秋の夕方だった。

駅からの帰り道、住宅街の細い路地。
空はまだ明るいのに、影だけが長く伸びている時間。

キャップを深くかぶった人影が、向こうから歩いてきた。

すれ違う直前で、顔を上げる。

「……リョウ?」

声でわかった。

穂花は、少し痩せていた。
顎の線がくっきりして、肩も薄くなっている。

「久しぶり」

それだけで、何秒か沈黙が落ちた。

昔みたいに自然には、言葉が続かない。

「最近どう?」

「まあまあ。そっちは?」

「ぼちぼち」

笑っている。
昔と同じ調子で、軽く。

でも近くで見ると、目の奥に、硬いものがある。
焦りとも違う。
覚悟、と言うには鋭すぎる。

俺はふと、彼女の手を見た。
細くて、指先に少しだけささくれがある。

練習のせいだろうか、と考えて、すぐに視線を逸らした。

「忙しそうだな」

言ってから、ありきたりすぎると気づく。

「うん。でも、楽しいよ」

即答だった。

嘘ではないのだと思う。
でも、それだけでもない気もした。

言葉にしなかった何かが、空気の中に残る。

俺は、ずっと前から知っているはずなのに、
今目の前にいる彼女を、少しだけ知らない。

「頑張ってるな」

結局、そんなことしか言えなかった。

穂花は小さく笑った。

「うん」

それだけ。

もっと何か、言うべきだったのかもしれない。

無理するな、とか。
ちゃんと寝ろ、とか。

あるいは――

そこまで考えて、やめた。

それを言う資格が、自分にあるのか分からなかった。

俺は、あの部室を途中で離れた側だ。
彼女の熱を、最後まで追わなかった側だ。

別れ際、穂花は軽く手を振った。
その仕草は軽いのに、背中はやけに遠かった。
夕陽の逆光で、輪郭だけが浮かぶ。

あのとき、はっきりした。

俺は、まだ彼女のことを特別に思っている。
でも、それはもう、どうにかできる種類の感情ではない。

彼女は前に進んでいる。
俺は、同じ場所で見送っている。

小さな差だったはずの角度が、
気づけば、目で追うのも難しい距離になっていた。

振り返らなかったのは、彼女だけじゃない。

俺も、呼び止めなかった。

それでよかったのかどうか、
今も、わからないままだ。


3. 光の届かない場所

家に帰ってから、何度も彼女の名前を検索した。

新しい記事。
更新された動画。
見慣れない肩書き。

再生ボタンを押すたび、少しだけ息を止める。

ステージの上の穂花は、まるで別の生き物みたいだった。

ライトに照らされ、歓声に包まれ、
一瞬の隙もなく動く。

あんな表情、俺は知らない。
あんな笑い方も、あんな目も。

完璧に作られた角度の中で、彼女は迷わない。
ためらいがない。
自分の体をどう見せればいいか、どの瞬間に視線を上げればいいか、すべてを理解している。

画面の中で、彼女は大勢の誰かに向かって手を伸ばす。
その手は、まっすぐ前に伸びている。

俺の方ではない。

当たり前だ、と頭ではわかっている。

それでも、どこかで期待していたのかもしれない。
昔の延長線上に、自分が少しは残っていると。

動画が終わる。
暗くなった画面に、自分の顔が映る。

部室の匂いを思い出す。
埃と、金属と、少し湿った床の匂い。

あの場所では、彼女の声はまだ荒削りで、
失敗もして、悔しそうに唇を噛んでいた。

今は違う。

失敗は表に出ない。
弱さも見えない。

きっと裏では、何度も崩れているのだろう。
誰もいない場所で、声が枯れるまで歌っているのだろう。

それを想像すると、胸がざわつく。

助けたい、とは思わない。
助けられるとも思っていない。

ただ、知ってしまっている。

彼女が、一人で耐える人間だということを。

あの夕暮れ、少し痩せた横顔。
笑っていたのに、どこか硬かった目。

あのとき何か言えていれば、何か変わったのだろうか。

いや、変わらない。
彼女は、止まらない。

俺が何を言っても、何を差し出しても、
きっと選ぶ道は同じだ。

ベランダに出ると、夜風が冷たい。

遠くで歓声のような音が聞こえた気がして、空を見上げる。
ただの車の音だった。

星は、思っていたよりも少ない。
どれがどれなのか、名前もわからない。

それでも、確かにそこにある。
触れられない距離で。

彼女は、もう俺の知っている範囲にはいない。
昔を共有していることが、何かの意味を持つとも思えない。

あの部室も、きっと来年には別の部活が使う。
埃の匂いも、上書きされる。

俺は普通に進学して、普通に働いて、
普通に年を取っていくのだろう。

そのどこにも、彼女はいない。

ニュースで名前を見ることはあるかもしれない。
偶然、街頭ビジョンに映るかもしれない。

でもそれは、俺とは関係のない光だ。

きれいだと思う。

同時に、怖い。

近づけば、自分の輪郭が消えてしまいそうで。

気づくと、拳を握っていた。
悔しいのか、寂しいのか、自分でもわからない。

ただ一つだけ、はっきりしている。

あのときから続いていた小さな角度の差は、
もう戻らないところまで開いている。

手を伸ばすこともできる。
連絡を取ることもできる。

けれど、それは違う。

彼女は前へ進む人間で、
俺は、それを遠くから見ている人間だ。

それ以上でも、それ以下でもない。

部屋に戻ると、スマートフォンの画面がまだ明るかった。
再生履歴に、彼女の名前が並んでいる。

指を伸ばしかけて、止める。

もう一度見ても、距離は縮まらない。
画面を伏せる。
部屋が静かになる。

光は消えたのに、目の奥に残像だけが残っている。

きれいで、触れられなくて、
自分とは別の世界にあるもの。

それを、ただ知っている。
それだけが、今の俺にできることだった。